龍谷大社会学部岸政彦先生の言説検証

(2017/4/2追記 「岸政彦 立命館」の検索結果に私のblogが出る。

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なので立命館大学シラバス置いておきます。↑担当者名で検索。) 

 前回の記事で岸政彦現象とした。佐藤優が「論壇」である時期、重宝されたことを分析したブロガー達のように、彼を理解して「世間」を分解したい。

 しかし、彼はどうやらこれから「売り出し中の学者」になるのであって今「現象」というほど右派左派論壇誌に載っているわけではない。

よって、彼の放つ言葉を見ることで、彼から感じる矛盾について書く。

 1、

岸政彦と開沼博は似ている。長編アニメ「この世界の片隅で」の受容のされ方と2人は似ている。

 自分が社会の利害関係者の一員であることの自覚。そして、不正義・社会的不公平を「見た」側に立ちつつ、自分が他人を傷つける側/かもしれない事の自覚。2つは両立する。しかし上の3つにこれらがない。

なぜ福島学を提唱した開沼博立命館大にいるのだろうか?福島の側に「寄り添う」なら、今すぐ浜通りに家族で移住して米や野菜を作り、牛を飼い、収穫した農作物を農林水産省の食堂に納めたらいい。

 無名の人々に聞き書きを通じて関わって「祈りとは社会である」と言う事、「ネトウヨ」や「女」をSNS上で馬鹿にし「この風俗嬢のブログが面白いよ~」とブログに書く事はどのように、岸政彦の中で両立するのか?

 2

大衆をバカにしつつ、大衆に優しい態度をとる学者は、掃いて捨てるほどいる。私は、その学者の原型を石母田正の中に見る。

小熊英二著『民主と愛国』で、8章「国民的歴史運動」のマルクス主義歴史家の石母田正が紹介されている。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

12/12以下追記

理解できない人をなんとか知りたいと思う、その人を通して社会をみる。この批評のしかたは、アイザイア・バーリンの思想です。

彼の過去ブログで他人につめたい姿勢があらわれている。彼は社会評論が書けない。『他者の合理性を理解する』には深い洞察力が必要。

http://web.archive.org/web/20100302042432/http://sociologbook.net/log/200707.html#eid141