大衆運動について
大衆運動は(略)自己が見捨てられている状態から何とか脱出しようとしている人々にとって魅力があるのである。大衆運動は、(略)自己放棄の激情を満足させることができるからこそ、追随者を引きつけ、引きとめているのである。
自分自身が優秀であると主張する理由が薄弱になればなるほど、人はますます、彼の属する国家、宗教、人種、あるいは神聖な大義が、あるいは神聖な大義が、優秀きわまりないと主張する傾向がある。
他人にたいする神聖な義務を負っているのだという、燃えるような確信は、多くの場合いわば溺れそうな自分自身を通り過ぎるいかだに結び付ける手段である。
あらゆる大衆運動は、現在を、光栄ある未来への下準備、つまり黄金時代という家の敷居にある靴ぬぐいにすぎないとして非難する。
実際的業務の処理に失敗するということは、公共的な業務の処理に成功するための資格であるように思われる。そして誇りの高い連中の中には、実際的な世界で敗北を喫したとき、壊滅させられたとは感じないで、にわかに、彼らが共同体や国家の運命を指揮するための優れた資格をもっているという、チョット見たところでは不合理な確信で燃え上がらせられるものもいる。これはおそらく幸運なことなのであろう。
(略)自由な社会における指導者が、人民を軽蔑するようになると、遅かれ早かれすべての人間は馬鹿者であるという誤ったそして致命的な理論に到達し、そしてついには大失敗をしでかして敗北するのである。
ほとんどすべての言論人には、たとえ彼がどの型に属していようとも共通の根強い熱望が合って、それが支配的な秩序にたいする彼の態度を決定している。それは認めてもらいたいという熱望である。
(略)言論人が、自分自身のことを、暴政にしいたげられ傷つけられた者の擁護者であるとどの様に考えても、きわめてわずかの例外を除けば、彼を衝き動かしている不満は私事に関する個人的なものである。
狂信者はどこからやってくるのか?想像力に欠けた言論人の層からやってくる場合が大部分である。
信仰のない知識人が仕事をした場合には次の詩のような事態になる。
優れた人々はいっさいの強い信念を失ない
極悪の徒輩は烈しい熱で張り切っている
たしかに、あの黙示が間近に迫っている
再来は遠いことではないのだ。
舞台は今や、狂信者のために整えられたのである。
- 作者: エリックホッファー,Eric Hoffer,中本義彦
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